LOGIN部屋に帰ると、私はまず花瓶を紙袋から出した。
薄い水色の小さな花瓶。
店で見た時より、部屋の光の中では少し柔らかく見える。
私は窓辺に置いてみた。
薄い青のカーテンの前。
クラゲのキーホルダーの隣。
そこに置くと、花瓶は思ったより自然に馴染んだ。
「……いい」
小さく呟く。
誰かに見せる前に、まず自分でそう思えた。
グラスに挿していたミモザをそっと抜き、茎を少し切る。
水を入れた花瓶に挿すと、黄色い小さな花がふわりと広がった。
水色の花瓶と、黄色い花。
薄い青のカーテン。
淡い水色のクラゲ。
窓辺に並ぶそれらを見ていると、胸の奥が静かに満たされていく。
完璧な部屋ではない。
でも、私が選んだものが少しずつ増えている。
そのことが、何より嬉しかった。
スマホを手に取り、写真を撮った。
◆ 仕事部屋でくつろいでいた蓮のスマホが震えた。 画面を見ると、姉からメッセージが届いている。『今日休みだったんでしょ。ちゃんと休んだ?』 蓮は苦笑した。 仕事を詰め込みすぎると、姉は決まってこういう連絡をしてくる。『休んだよ。出かけてた』 そう返すと、間を置かずに返信が来た。『珍しい。どこ行ったの?』『カフェ。あと雑貨屋』『誰と?』 蓮は画面を見つめた。 姉の勘のよさは、子どもの頃から変わらない。『知り合いの人と』 送信すると、すぐに電話がかかってきた。「……もしもし」『ちょっと蓮。知り合いの人って誰よ』「普通、そこから電話してくる?」『だって、あんたが休みの日に誰かとカフェなんて珍しいじゃない。しかも雑貨屋まで行ったんでしょ?』「たまたま近くにあったから寄っただけだよ」『ふうん。で、誰?』 蓮は小さく息をついた。「写真をきっかけに知り合った人。今日はその人が店を見つけて、誘ってくれたんだ」『へえ』 姉の声が、明らかに楽しそうになった。『女の人?』「……そうだけど」『あら』「その反応、やめてくれない?」『別に何も言ってないでしょ。でも、嬉しそうな声してる』 蓮は思わず眉を寄せた。「そんなに分かる?」『分かるわよ。あんた、興味のない話ならもっとあっさり終わらせるもの。今、ずいぶん丁寧に説明してくれたじゃない』 言い返そうとして、蓮はやめた。 姉の指摘には、思い当たるところがあった。『大事にしなさいよ。その人との時間』 からかうような声が、少しだけ穏やかになった。「……うん」『それと、部屋も片づけなさいね』「そこは今、関係ないだろ」『
◆ 朝倉蓮が自宅の玄関を開けたのは、午後六時を少し過ぎた頃だった。 靴を脱ぎ、ジャケットをハンガーに掛ける。いつもなら仕事部屋へ直行するところだが、今日はそのままキッチンへ向かった。 冷蔵庫から水を取り出し、グラスに注ぐ。窓の外には、夕方の街並みが広がっていた。 蓮は水を飲みながら、今日の出来事を思い返した。 藤崎真琴と、カフェへ行った。 彼女が見つけてくれた店だった。 古い建物を改装した落ち着いた店内で、ケーキを分け合い、子どもの頃の話や普段の料理について話した。そのあとには雑貨屋へ寄り、買い物をするわけでもなく、棚に並んだものを眺めながら歩いた。 何か大きな出来事があったわけではない。 けれど、思い返すと自然に口元が緩んだ。 今日の藤崎さんは、よく笑っていた。 姉にゲームで負かされた話をした時も、使い道のない香辛料が棚に残っていると話した時も、楽しそうに聞いてくれた。 それが嬉しくて、普段ならあまり人に話さないことまで口にしていた気がする。「……結構しゃべったな」 誰もいない部屋で呟くと、少しおかしくなった。 蓮はもともと、人付き合いが苦手なわけではない。 撮影の現場では初対面の相手と話すことも多いし、被写体が緊張していれば、場を和ませるために冗談を言うこともある。 ただ、仕事が終われば一人で過ごす時間を好んでいた。休日に誰かと会う予定を入れることも、それほど多くはない。 それなのに今日は、帰り道で次の約束を考えていた。 自分でも少し意外だった。◇ 仕事部屋の扉を開けると、机の上には編集途中の写真が残っていた。 壁際の棚にはカメラとレンズが並び、その隣には資料や写真集が積み重なっている。 蓮は椅子に座り、パソコンの電源を入れかけて手を止めた。 今日は仕事をしないと決めた日だった。 帰宅したら少しだけ写真を整理しようと思っていたが、今はそんな気分ではなかった。
駅へ続く大通りに出たところで、朝倉さんが少し歩く速度を緩めた。「藤崎さん」「はい?」「今日、誘ってくださってありがとうございました」 私は少し驚いて、隣を見た。「さっきもお礼を言ってくださったじゃないですか」「そうでしたね。でも、もう一度言いたくなったので」 朝倉さんは照れたように笑った。「最近は、仕事で人に会うことが多かったんです。撮影の打ち合わせだったり、展示の準備だったり。もちろん、それも楽しいんですけど、仕事を離れて誰かと出かける機会は、思っていたより少なくて」 私は頷いた。 朝倉さんは以前、休日でも撮影のことを考えてしまうと話していた。仕事が好きだからこそ、休みの日も自然とそちらへ気持ちが向くのだろう。「今日は、カメラも持ってきていないんですよ」「そういえば、いつものバッグじゃないですね」「はい。最初から持ってこないことにしました。途中で撮りたいものを見つけるかもしれませんけど、それはまた別の日でいいかなと思って」「今日も素敵なお店がありましたもんね。朝倉さんなら、撮りたいものがいろいろ見つかりそうです」「ええ。でも今日は、藤崎さんと出かける日なので」 その言葉に、私は少しだけ足を緩めた。 朝倉さんは私を見て、穏やかに続けた。「今日、楽しみにしていたのは、藤崎さんに会うことだったんです。カフェがどんなお店かも気になっていましたけど、それ以上に、またゆっくりお話しできるのが嬉しくて」 胸が大きく鳴った。 朝倉さんは、私が写真を見に来ることを喜んでくれていた。作品の感想を伝えると、いつも丁寧に聞いてくれた。 でも、今の言葉は少し違う。 写真を見に来てくれるからでも、作品を褒めてくれるからでもない。 私に会うことを、楽しみにしてくれていた。「……私もです」 少し照れくさかったけれど、自然に言葉が出た。「今日は、朝倉さんと一緒に出かけられるのが楽し
カフェを出た時には、午後の日差しが少し傾き始めていた。 店の前に置かれた鉢植えが風に揺れ、通りには買い物帰りらしい人たちの姿が増えている。「おいしかったですね。タルトもケーキも」 私が言うと、朝倉さんは満足そうに頷いた。「はい。今度はスコーンも食べてみたいです。隣の席に運ばれてきたのを見て、少し気になっていたので」「見てたんですね」「実は。藤崎さんがケーキを選んでいる時から、僕はそっちも気になっていました」「言ってくださればよかったのに」「さすがに三種類は食べすぎかなと思いまして」 真面目な顔で答える朝倉さんに、私は笑ってしまった。 初めて会った頃は、こんな冗談を言う人だとは思わなかった。落ち着いていて、少し距離のある印象だったのに、今は穏やかな表情の中にも、いろいろな感情が見えるようになってきた。 私たちは駅へ向かって歩き出した。 まだ帰るには少し早い時間だったけれど、朝倉さんにも予定があるかもしれない。 そう思っていると、彼が通りの先へ目を向けた。「藤崎さん、このあと少し歩きませんか?」「お散歩ですか?」「はい。せっかく初めて来た町なので、もう少し見てみたいなと思って。もちろん、お時間があればですが」 私はすぐに頷いた。「私も、もう少し歩いてみたいです。さっき来る途中に、気になる雑貨屋さんがあったので」「それなら、そこへ行ってみましょうか」 帰り道が、少しだけ遠回りになった。◇◇◇◇ 駅へ向かう大通りから一本入ると、古い建物を利用した小さな店が並んでいた。 手作りのアクセサリーを置いた店や、焼き菓子の専門店。店先に植木鉢を並べた花屋もある。 私たちはショーウィンドウを眺めながら、ゆっくり歩いた。「あ、ここです」 私が足を止めたのは、小さな生活雑貨の店だった。 窓際にはガラスの花瓶や木製のトレーが並び、奥の棚には布製品が見える。
カフェの扉を開けると、焼き菓子の甘い香りがふわりと漂ってきた。 店内には落ち着いた音楽が流れ、木製のテーブルがゆったりと配置されている。壁際の棚には古い本や小さな雑貨が並び、窓から差し込む午後の日差しが床に柔らかな模様を作っていた。「いらっしゃいませ。お二人ですか?」「はい」 店員さんに答えると、窓際の二人席へ案内された。 向かい合って座り、メニューを開く。写真で見た季節のケーキのほかに、スコーンやタルトもあって、思っていた以上に種類が豊富だった。「迷いますね」 私が呟くと、朝倉さんが笑った。「藤崎さん、来る前から何を食べるか決めていたんじゃないんですか?」「一応、季節のケーキにしようと思っていたんです。でも実物を見ると、タルトもおいしそうで」「それなら、両方頼んで分けますか? 僕も甘いものは好きなので」「朝倉さん、甘いものがお好きなんですね」「はい。結構好きですよ。ただ、一人で店に入るとコーヒーだけで済ませることが多いので、今日はいい機会です」 思いがけない答えに、私は少し笑った。「じゃあ、今日は遠慮なく頼めますね」「もちろんです。僕も楽しみにしていましたから」 結局、私は季節のフルーツケーキ、朝倉さんは洋梨のタルトを注文した。飲み物は私が紅茶、朝倉さんはブレンドコーヒー。 店員さんが離れると、私は店内をゆっくり見回した。「写真で見た通りのお店で、安心しました」「僕は写真より好きかもしれません。木の床が少しきしむところとか、棚の本がきれいに揃いすぎていないところとか、実際に来ないと分からない雰囲気がありますね」「確かに。本も自由に読めるみたいです」「何か気になる本がありましたか?」「料理の本が何冊か。帰る前に見てみたいです」「いいですね。僕も少し見てみようかな」 そう話していると、朝倉さんの視線が棚の一角で止まった。 そこには、少し古いボードゲームの箱が並んでいた
土曜日の午後一時半。 私は駅のホームに立ち、スマホで時間を確認した。 朝倉さんとの待ち合わせは午後二時。ここから二駅だから、少し早めに着くことになりそうだった。 今日は朝から落ち着かなかった。 いつも通り朝食を食べ、洗濯物を干し、部屋の掃除も済ませた。それなのに、出かける支度を始める頃には、何度も時計を確認してしまった。 服は、淡いブルーのブラウスに紺色のスカートを選んだ。 先日、一緒に喫茶店へ行った時とは違う組み合わせだ。鏡の前で何度か確認し、最後に小さなイヤリングをつけた。 別に、特別なおしゃれをしたわけではない。 でも、朝倉さんに会うのだから、少しはきれいにしていきたい。 そう思って服を選ぶ時間が、楽しかった。 電車がホームに滑り込んでくる。 私はバッグを持ち直し、車内へ乗り込んだ。◇◇◇◇ 待ち合わせの駅に着いたのは、午後一時四十五分だった。 改札を出ると、休日らしく何組かの人が待ち合わせをしていた。家族連れや学生らしい二人組、スマホを見ながら誰かを待つ人。 私は少し離れた場所に立ち、朝倉さんへメッセージを送ろうか迷った。 まだ十五分ある。 急かすようになるのも申し訳ないし、約束の時間まで待っていればいい。 そう思ってスマホをバッグに戻した時だった。「藤崎さん」 聞き慣れた声に振り向く。 朝倉さんが、改札の向こうから歩いてきた。 白いシャツに薄手のネイビーのジャケット。普段より少しきちんとした服装で、片手には小さなバッグを持っている。 いつものカメラバッグではなかった。「こんにちは。早かったんですね」「こんにちは。少し早めに出たつもりだったんですが、藤崎さんの方が先でしたね」 朝倉さんは笑いながら、腕時計を見た。「まだ十五分ありますし、慌てなくてもよかったのに」「私も少し早く着いてしまったんです。電車の時間がち
土曜日だった。 本当なら少し遅くまで寝ていたい日なのに、私はいつもの時間に目が覚めた。 隣を見る。 ベッドは空だった。 私はぼんやり身体を起こし、リビングへ向かう。 悠斗はソファでスマホを見ていた。 「あ、おはよ」 「おはよう」 カーテンの隙間から朝の光が差し
結局その日、私は一人でラーメンを食べて帰った。 本当はもっと洒落たものでも食べようと思っていた。 せっかく外食する気分だったし、少しくらい贅沢してもいいかなって。 でも店を探す気力がなくなってしまった。 駅前のラーメン屋に入り、カウンター席へ座る。「ご注文どうされますか?」「あ、醤油ラーメンで」 店員に答えながら、自分でも少し驚く。 私は本当は塩派だ。 でも悠斗が醤油好きだから、気づけば家でも醤油ばかり作るようになっていた。 私は箸を持ったまま、ぼんやり湯気を見つめる。 好きなもの。 最近、自分の『好き』がよく分からない。 ラーメンを食べ終えて店を出ると、夜風が少
翌日の朝、私は少し寝坊した。 目を覚ますと時計は七時十分を指している。「……やば」 慌てて起き上がる。 いつもならもう朝食を作り始めている時間だった。 私は急いでキッチンへ向かう。 でもそこには思っていた光景がなかった。 悠斗が一人でコーヒーを淹れていた。
写真を閉じたあとも胸のざわつきは消えなかった。 私はソファに座ったまま、ぼんやりスマホを握りしめる。 居酒屋の明るい照明。 楽しそうな笑い声が聞こえてきそうな写真。 その端に映っていた悠斗。 私の前で見せる顔とは少し違って見えた。 なんでだろう。 笑っていただけなのに。







